
人が意図を持つとき,そこには「願い」があります。
私が意図をもって技術に触れる時,大抵は消極的な願いを持っています。
端的に言うと,私が触れた全てのものについて,私が不要であり続けて欲しいという願いがあります。
なぜなら,私が居ないと成り立たない物は,私が居なくなったら無価値になると考えているからです。 身の程知らずに聞こえるかもしれませんが,これはつまり,自分の子が独り立ちして欲しいという想いと同じつもりです。
私は自分で管理できない物を作り続けることを夢見ています。 だって,余りに大きい物を抱え込むと自分の足取りが蹣跚としてしまい,行きたい場所へ行けないではないですか。
それに,大きな責任というのは,得てして社会に存在する悪意を受け止める必要を伴います。 後ろ指をさされないためには,居場所が分からない方が好都合なのです。 責任を持たないというのはそういうことです。
私は縁側に腰かけつつ,おそらくは麗らかであったはずの世の中に降る雨の砌を眺めていたいのです。
これは余談ですが,私の活動の多くは消極的な願いから生まれるものです。 当然,私の仕事がいつ消えても良いと思っています。 私が普段から少しずつ貯金しているのは,嘘をつかないためかもしれませんね。
結局のところ,ある存在と長く関わることとは,互いの清祥を願うことだと思います。
だからこそ,日常では刹那的な付き合いを大切にしようと思うのは,高慢でしょうか。